芸術を愛し浪費を繰り返した英国王!ジョージ4世~アンティークコインの世界~
イギリス国王、ハノーヴァー朝の第4君主であったジョージ4世。座位期間は1820年~1830年と10年ほどですが、病気で政治が困難になった先代ジョージ3世の摂政皇太子として1811年から公務を行っていました。芸術を愛し豪華を好んだジョージ4世の暮らしぶりは倹約を好んだ父ジョージ3世とは対照的でした。贅沢を重ね負債をつくるジョージ4世でしたが摂政時代は立憲君主政の元、イギリスはナポレオン支配下のフランス軍にワーテルローの戦いで勝利をおさめました。ジョージ4世の生涯とジョージ4世金貨についてお話します。
ジョージ4世の幼少期は?勉強熱心で後の芸術復興活動に関係?
ジョージ4世はイギリス・ハノーヴァー朝の国王で、かつてドイツにあったハノーファー王国の国王でもあった人物です。父親はジョージ3世、母親はシャーロット王妃で、1762年の8月12日にセント・ジェームズ宮殿で生まれました。
国王の長男であるため、誕生した数日後にプリンス・オブ・ウェールズやチェスター伯爵などの称号が与えられており、1762年の9月18日にはアドルフ・フリードリヒ4世、ウィリアム・オーガスタス、オーガスタ・オブ・サクス=ゴータが名親となり、カンタベリー大主教のトマス・セッカーによって洗礼を受けています。
幼少期はラテン語やフランス語、ドイツ語、イタリア語などの言語の勉強や、文学や音楽、歴史に関する勉強に励み、行儀作法についてもきちんとしつけられていたといわれています。彼は特に建築や彫刻、絵画などの芸術分野を好んでいたようで、後に成長してからもパトロンとして王立美術院を支援するなど、様々な貢献をはたしています。
18歳になったジョージ4世は邸宅を与えられますが、彼はそこで複数の愛人と過ごしたり、酒を飲みすぎるようになりました。さらに邸宅の装飾や維持のために大金を使うなど、浪費を重ねるようになったため、彼に倹約することを望んでいたジョージ3世との仲も少しずつ険悪なものになっていきます。
ジョージ4世の青年期は?愛をつらぬいた極秘結婚
ジョージ4世は21歳になるとマリア・フィッツハーバートという平民でカトリックの女性を熱愛するようになり、1785年の12月15日にマリア・フィッツハーバートの屋敷で結婚式を挙げます。ただしこの時代の王位継承者はカトリックの女性を配偶者にすることはできなかったため、この結婚も国王の同意を得ずに極秘で行われることになりました。
さらにこの結婚の後もジョージ4世は負債を増やし、父に援助を断られてからはフィッツハーバートの屋敷で生活するようになります。
1787年にはジョージ4世の友人である政治家が負債を返済するための補助金を議会から出させようとしますが、二人の仲に疑いを持つ者もいたため、ジョージ4世はホイッグ党の長に潔白を証明するための宣言をだしてもらうことにしました。しかしマリアはこの宣言の内容を嫌い、二人の関係を終わらせようとしたので、後からホイッグ党の別の政治家に内容を修正させています。結果的に、ジョージ4世は議会から多額の補助金が与えられました。
借金を援助してもらうため…望まぬ結婚と父ジョージ3世の病気、苦難の日々
1788年の夏になると父のジョージ3世が体調不良を訴えはじめ、公務をこなすことができないほど病状が悪化したので、一度議会を停会させます。しかしジョージ3世は徐々に体だけではなく精神の状態も徐々に悪くなっていったため、11月に再開した議会の開会式において国王演説ができず、議会の事務も正常に進められなくなりました。
この際に首相の小ピットや議員達は様々な弁論を行いますが、摂政法案という法案が提出された後、ジョージ3世が回復します。
この危機を乗り越えた後、ジョージ3世は浪費を続ける息子に対して、負債の返済を支援するかわりに正式な結婚をするように迫ります。ジョージ4世は一度も会ったことがないが、肖像画の美しさが有名だったキャロライン・オブ・ブランズウィックを娶ることを決意し、1795年の4月8日にセント・ジェームズ宮殿で結婚しました。
しかしジョージ4世は初対面の日にキャロラインの独特な体臭に驚き、キャロラインもまた彼の太りかたに驚いて、失意のまま結婚式にのぞんだといわれています。二人の結婚生活はうまくいかず、1796年に長女のシャーロットが生まれるとすぐに別居をはじめます。
シャーロットは王家で育てられ、1806年にキャロラインの不貞の噂が広まってからは、彼女がシャーロットに会うことも制限されるようになりました。その後彼女は議会から年金が与えられ、出国の許しを得てからは外国で暮らすようになり、エルサレムで自分が設立した騎士団の総長に愛人を任命するなど、奔放な生活を送ったとされています。
シャーロットについては1804年に彼女の後見に関する争いが起きましたが、結果的にはジョージ3世の保護のもとに置かれます。
国王前にも摂政皇太子として国政へ、イギリス文化への影響も大!
ジョージ3世は1810年末に娘であるアミーリア王女が亡くなったことがきっかけとなってまたもや精神に異常をきたすようになり、ジョージ4世が摂政王太子として国を統治することになりました。彼はほとんど政治に干渉せず、内閣が大半の事務作業を執り行いました。1812年に首相をしていたスペンサー・パーシヴァルが暗殺されると、ジョージ4世はトーリー党のリヴァプール伯爵を新たな首相にしました。
トーリー党はフランス皇帝のナポレオン1世との戦争を続けたがっていた政党で、1815年にはイギリスとプロイセンの連合軍がワーテルローの戦いでナポレオン1世を打ち負かしています。この時期にジョージ4世はルイ18世を保護しており、ワーテルローの戦いの後フランスに帰国したルイ18世は復古王政を始めます。
また、この摂政時代はイギリスの社会構造や文化への影響も大きかった時代としても知られています。ジョージ4世がパトロンとして様々な援助をしていたのもこの時期で、王立美術院の一室にシャンデリアを飾ったり、外国から訪れた客の相手をして王立美術院のなかを案内するなど、多様な働きをみせています。