復興事業を記念して発行された東日本大震災復興事業の記念硬貨
2011年3月11日、東日本を襲った大地震は甚大な被害を残しました。特に、東北地方の受けた被害は深刻であり、「立ち直ることは難しい」とする意見すら出ていました。そのような状況においても、人々はあきらめることなく復興事業に取り組み続けたのです。こうした人々の姿を記念して、造幣局が発行したのが「東日本大震災復興事業記念貨幣」です。
復興への想いがデザインされた東日本大震災復興事業記念硬貨
金貨、銀貨ともに2015~2016年に1~4次の4回にわたって発行されました。
金貨の直径は26ミリメートルで、銀貨は40ミリメートル。重さは15.6グラムです。銀貨はカラーコインとして発行されました。
東日本大震災復興事業記念貨幣は「プルーフ貨幣」であり、1万円金貨と1000円銀貨が合計で22万5000枚発行されました。そのうち金貨は合計で4万5000枚です。
プルーフ貨幣とは、通常の貨幣よりも美しさにこだわった種類を指す言葉です。コインの表面上が丁寧に磨かれており、鏡のように光るのが特徴です。
想いがこめられた震災復興記念硬貨のデザイン
記念硬貨はまずデザインに注目が集まります。東日本大震災復興事業記念は1~4次までですべてデザインが異なっており、いずれも東北復興への想いがモチーフとして刻まれています。まず、1次金貨の個別面の「復興特別区域の地図とハト」には日本中の願いが込められていました。ハトは平和を象徴する鳥であり、被災地の復興が順調に進んでほしいとの祈りを表現しています。銀貨には「大漁船と稲穂」が描かれました。裏側の共通面ではいずれも「奇跡の一本松とハト」が登場しています。共通面は1~4次まで同じです。
2次の個別面は、金貨が「学校と鯉のぼり」。子どもたちの未来を明るくしたいとの意味があります。銀貨は「復興特別区域の日の出と折鶴」でした。そして、3次では金貨に「復興特別区域の地図、折鶴、奇跡の一本松」。この奇跡の一本松は復興の象徴になった岩手県陸前高田市気仙町の松の木です。ユースホテルの敷地内に植えられており、樹齢は200年を超えていました。震災による津波が起こったとき、気仙沼に甚大な被害が及んだにもかかわらず一本松は立ち続けていました。そのことで、「奇跡」と称されるようになり、東北の人々に勇気を与えるようになったのです。銀貨には「日本を応援する少年」を描いています。4次は金貨が「豊かな自然と鳥」。東北の自然が彩られています。銀貨が「握手する日本列島と桜」です。いずれも単に東北のデザインを取り入れていることではなく、復興事業を通して生まれた日本全国の絆を連想させてくれます。
金貨の発行枚数は1次で1万4000枚、2次で1万1000枚、3、4次で1万枚です。価格はいずれも9万5000円でした。銀貨は1次で6万枚、2~4次で4万枚です。これらの硬貨の販売は造幣局によって行われました。
記念貨幣の発行が決まり、造幣局にて販売受付が開始されると申し込みが殺到しました。販売数量を上回る申し込み数で抽選販売となりました。ちなみに、金貨幣プルーフ貨幣セットの当選倍率は4次で43.97倍にもなりました。これだけの人気が集まった理由として、東日本大震災復興事業記念金貨がいままでで一番発行枚数が少ない金貨だったことが大きいかもしれません。
金貨と銀貨の1次のデザインは造幣局によるものですが、2次以降は一般から公募したデザインを採用しています。
復興国債保有者へ送られる特別ケースの東日本大震災復興事業記念硬貨
個人向け復興応援国債を一定以上保有していた人に対して無料で贈呈される、贈呈用東日本大震災復興事業記念貨幣があります。
具体的には、1次発行の1万4000枚中4263枚が贈呈分でした。2次発行では1万1000枚中1357枚が贈呈分です。3、4次はいずれも1万枚発行され、それぞれ812枚と919枚が贈呈分でした。1次は約3割が、2~4次については1割前後が贈呈分として作られた計算です。そして、貨幣コレクターの世界ではより価値があるとされてきたのは贈呈分の貨幣でした。
こうした事情を受けて、買取業界では贈呈分の東日本大震災復興事業記念金貨が高値で取引されてきました。ただ、流通分と贈呈分で貨幣のデザインが変わるわけではないので、そのまま金貨単品で買取業者に持ち込んでもプレミア価格がつくわけではありません。贈呈分であることを証明するには特製ケースが必要です。造幣局は贈呈分の貨幣のみ、特別なケースに入れて届けていました。さらに、感謝状が同封されていたのも贈呈分独自の特徴です。箱の内側にはリボンをかけられる仕組みとなっていて、感謝状と一緒に飾れるようになっています。
2011年3月11日東日本を襲った未曾有の大地震
宮城県牡鹿半島の東南東130km付近を震源地とした東日本大震災は、マグニチュード9.0を記録しました。この規模は、20世紀以降に計測された地震として世界4位とされています。地震そのものだけでなく、時間差で訪れた津波などの二次災害も東日本に大きなダメージを与えました。確認されている死者数は約1万6000人、行方不明者数は約2500人です。そのほか、家を失ったり危険区域から逃れたりした避難生活者は約12万5000人にものぼりました。
なお、「震災関連死」という現象も起きます。震災後、避難所の環境や医療の不備などによって死にいたったケースです。震災関連死は主に高齢者の中で広がり、東北地方で約3700人の犠牲者を生んでしまいました。原因のひとつとして、東北地方ではまだ寒さの厳しい3月に起こった災害であることも挙げられます。十分な暖房の効いていない避難施設で、健康状態を悪化させた高齢者は続出しました。
さらに、地震の発生直後、東北だけでなく都市圏の交通機関が麻痺状態に陥ります。そのため、電車やバスに乗れない「帰宅難民」と呼ばれる人々が大量発生しました。東京都では一時収容施設が設けられ、約9万4000人が利用しています。ただ、多くの人は徒歩での帰宅を選び、都内の道路は人であふれて混乱しました。そのほか、電気やガスの供給に支障をきたした地域も少なくありませんでした。
絶望的な原子力発電所の崩壊
東日本大震災の衝撃は日本社会に大きな傷跡を残します。その中でも、福島第一原子力発電所が被った津波被害は、原子炉のメルトダウンを招き、大量の放射能汚染の原因にもなりました。発電所従業員をはじめとする、大勢の人々の尽力によって被害を僅かでも抑えることはできたものの、事態は東北の地に深刻な後遺症を与えました。農業や漁業に影響を与えただけでなく、東北全体のイメージを変えてしまう、いわゆる「風評被害」も生み出しました。風評被害は観光産業の低迷にも関係していきます。
インフラの麻痺
物流停止やパニックも震災被害に該当するでしょう。震災の影響で、都市部から東北につながる交通機関が正常に機能しなくなりました。そのため、食料品や衣類、生活雑貨などの不足が起こります。こうした東北の状況はほかの地域でも報道され、人々の心理的不安を招きました。震災の被害がそれほど大きくなかった場所でも食料品、防災グッズの買いだめが起きるなど、市場は混乱に陥ります。そのうえ、インターネットでは情報が錯綜し、個人や企業に関するデマも蔓延しました。
被災者の精神的ダメージ
また、東日本全体で頻繁に余震が続くことから、ノイローゼにかかる人も増えていきます。このような状況を受けて、西日本への一時的な疎開、移住を行う世帯も現れました。多くの商業施設、オフィスなども営業を再開するまでに長い時間を要します。震災から普及することなく、閉店や倒産に追い込まれたところも珍しくありませんでした。そして、日常の光景を変えてしまったことも、東日本大震災の余波だといえるでしょう。地震や津波が登場したり、連想させたりするシーンのある映画、ドラマは発表が見送られるようになります。また、テレビやメディアの編成からも刺激的な内容が一時的に消える傾向が強まりました。
東日本大震災がもたらした経済的損失は、額面にして20兆円以上ともいわれています。さらに、日本経済の大打撃は諸外国にも影響を与え、円に換算して19兆円ほどの損失が世界中で生まれたとされています。原発事故に関する被害と合わせれば、損失額はより大きくなるといえるでしょう。
復興に向けて活動する日本。そして世界各国の支援
行政や民間に関係なく、東日本大震災から数多くの復興事業が実施されてきました。その中でも、経済的に大損失を受けた東北地方を復興させるには、大がかりな施策が必須だったといえます。たとえば、国土交通省は基幹インフラ対策に力を入れてきました。津波被害を食い止めるための海岸対策を施すなど、同様の事態が来ても乗り越えられるよう、準備を着々と進めています。また、震災によって損害を受けた道路や鉄道、港湾の復旧作業も大きなテーマとなっています。
そして、震災によって住む場所をなくした人に向け、公営住宅の建設も行われてきました。震災直後はプレハブを使った仮設住宅が目立ったものの、公営住宅の工事が終わるにつれて被災者の移住が推進されていきます。さらに、「復興まちづくり」という名のプロジェクトも行われてきました。これは土地区画を整理したり、津波対策を十分に施したりした住宅街を東北に生み出すための事業です。国土交通省による復興事業が進んでいくにつれ交通網は回復し、避難所から日常へと帰っていく東北民の姿は多くなっていきました。国道や高速道路の復旧工事は2016年には概ね完了します。
さらに、政府は「復興庁」を設立し、継続的に復興事業を行っていく姿勢を打ち出しました。復興庁主体の取り組みとしては「市街地や避難所の整備」などが挙げられます。震災後、市街地には土砂や瓦礫があふれ、人が住んだり経済活動を行ったりするのが難しい状態でした。また、避難所では関連死を招くほどに、物資も設備も整っていない状態が続きました。復興庁は対象地域の整備に努め、再び暮らしやすい街に戻すことを目指しています。
こうした取り組みを行っていくうで、日本政府は2011年からの5年間を「集中復興期間」に指定しています。その間、実に26.3兆円の国費が予算に割かれ、一刻も早い復興のために事業が次々と立ち上げられていきました。予算の多くは被災者支援総合交付金や東日本大震災復興交付金といった支援に用いられ、一般人や民間人のサポートに貢献しています。そして、企業やNPO法人、教育機関などが東北の復興に向けた活動を行う際に、経済的援助をする施策も積極的になされてきました。
行政だけではない民間による支援
そのほか、民間企業や一般人から多くの協力者が現れたのも東日本大震災で印象深い出来事でした。ボランティアの一員として東日本に向かい、救援物資を届けたり救護活動を手伝ったりする人がたくさん出てきたのです。また、「東日本大震災復興支援財団」という公営気財団法人も創設されています。この財団では、東北の子どもたちへの寄付を通して十分な教育を受けられる環境づくりを行っています。こうした財団に限らず、全国から東北には大量の義援金、支援金、救援物資などが届きました。
世界各国の多くが手を差し伸べてくれた
アメリカ軍による「トモダチ作戦」も有名な支援活動です。空母やヘリコプターなどを使って、救援物資の輸送や行方不明者の捜索などが行われました。イギリスの災害救助犬チームやオーストラリア空軍もトモダチ作戦に協力しています。そのほかの諸外国からも物資や金銭による支援が施されてきました。アジア諸国はもちろん、ふだんはそれほど交流のなかったアフリカの国々からも寄附がなされるなど、日本の緊急事態に多くの手が差し伸べられました。
企業によっては、自社製品の売上の何割かを東北に寄付したり、東北にゆかりのある商品のワークショップを現地で開催したりといったプロジェクトを開催してきました。芸能人やミュージシャンが東北を訪れ、炊き出しを行ったり慰問コンサートを開催したりする姿も連日報道されるようになります。もちろん、これらの復興事業はまだ過程に過ぎず、完成を見る日ははるか遠くにあるといえます。日本中が東日本大震災を忘れず、根気強く協力していくことが求められているのです。
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