フランス革命とナポレオン~絶対王政から資本主義へ!~
陸軍学校を卒業したナポレオンは1785年に砲兵士官としてフランスの軍人となります。これは彼の人生に大きな影響を及ぼしたフランス革命が始まるわずか4年前のことです。
ブルボン王朝のルイ16世が支配していた当時のフランスは深刻な財政難にみまわれていて、ルイ16世はテュルゴーやネッケルを財務長官に任命して経済の建て直しをはかろうとしたのですが、なかなか思うようにはいきませんでした。
この時ネッケルが提案したのが三部会の招集でした。これは当時のフランスで第一身分とされた聖職者、第二身分とされた貴族、第三身分とされたその他の人々からそれぞれ代表を選んで、一緒に議事を運営するという画期的な議会です。
ですが開催された議会では当時の制度でさまざまな特権を得ていた聖職者や貴族と、第三身分の代表者が改革の進め方に対して激しく対立することになります。特に大きな問題となったのが議決方式の問題です。第三身分の代表者は全ての身分による合同の議決を求めましたが、貴族や聖職者は身分ごとの議決を主張しました。
これらのことが背景になって第三身分の代表者は独立して自分たちだけの国民議会を創設します。このとき第三身分の代表者がヴェルサイユ宮殿のテニスコートに集まって互いに誓約をしたのが有名な球戯場の誓いです。
貴族や聖職者の中にもこの国民議会の考え方に同意する人が現れたため、ルイ16世は後にこれを正式の議会として承認を与えます。ですが、その一方で貴族や聖職者の国民議会に対する反発も強まり、軍隊を召集してこれに圧力をかけようとします。
こうした中、民衆に人気があったネッケルが罷免されたことから、これを契機としてフランスの民衆は、当時多くの政治犯が収容されていたバスティーユの牢獄を襲撃しました。これが1789年のことでした。その後フランス革命は進行していくのですが、フランス軍の士官であった当時のナポレオンはこの動きに大きな関心を持っていませんでした。
革命が進行している最中も故郷であるコルシカ島によく帰郷していたのですが、革命が進行にするにしたがって、ナポレオン一家にも大きな影響を及ぼすことになります。コルシカ軍を裏切ってフランスの貴族となったナポレオンの一家に対する反感は地元に強く残っていて、フランスの王党派とみなされていたボナパルト家はコルシカ島から追放されてしまいました。
島を追い出されたボナパルト家はマルセイユに移住してそこで新しい生活を始めます。この当時ナポレオンは自分の政治に関する考え方をまとめた書籍を発表したのですが、こうした書籍を通して革命政府の中心人物であるロベスピエールのオーギュスタンなどとも親しい関係になります。このようにしてナポレオンも次第にフランス革命と深くかかわりあっていくことになります。
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