フランス皇帝ナポレオン~フランス革命と英雄の生涯~金貨に宿る歴史
世界各国から発行されているアンティークコイン。代表的なフランス金貨のひとつにナポレオン金貨があります。コインのモデルでもあるナポレオン1世。フランス皇帝ナポレオンの数々の活躍や名言は今も語り継がれています。今回はそのナポレオン1世の生涯についてお話いたします。
ナポレオン1世の第一統領時代が金貨のはじまり、ナポレオン金貨
ナポレオン金貨は広義の意味では19世紀以降の20フラン金貨全体をさすこともあります。ナポレオン一族の金貨はコレクターに人気があり、投資用としても集められている金貨となります。流通期間や量も大変多いため地金相当の価値で取り引きされる金貨ですが、発行年数やデザイン、状態によりプレミア価値がつく金貨もあります。
最初に発行されたナポレオン1世のナポレオン金貨は19世紀初め頃発行されました。フランスがヨーロッパ諸国と戦い勝利をおさめている最中です。
第一統領時代の金貨からはじまり(1803年~発行)~フランス帝国時代の月桂冠姿のナポレオン1世(1809年~発行)までデザイン等をかえ20フラン、40フランの金貨が発行されました。
次章からはナポレオン1世の生い立ちから第一統領時代を中心にお話いたします。
コルシカ島で誕生!ナポレオン出生とブリエンヌ陸軍幼年学校時代
第一帝政時代にフランス皇帝となったナポレオン・ボナパルトは1769年、現在のイタリア領であるコルシカ島に生まれました。ナポレオンが生まれた当時のコルシカ島は、フランスの領土となっていたため、ナポレオンもコルシカ島生まれのフランス人としてその生を享けます。
ナポレオンの父親であるカルロはコルシカ島で判事として働いていたのですが、コルシカ島は当時ジェノバ共和国からフランスに売却されていました。この売却は島民の許可を得ずに行われたものであったために島民は激怒し、売却したフランスに対して独立戦争を起こします。
この戦争でナポレオンの父カルロはコルシカ島側の指導者の副官を務めていたのですが、途中からフランス軍に寝返ります。この転向によって戦後、カルロはフランス本国から貴族としての地位を受けることになりました。このことが、後のナポレオンの人生に大きな影響を与えることになります。
カルロはフランスから派遣されているコルシカ島の総督とも親しい関係になったことから、自分の子供を教育のためにフランスへ留学させます。このとき留学させらたのが、ナポレオンと彼の兄のジュゼッペでした。ナポレオンははじめ修道院の学校で勉学に励んでいたのですが、その後ブリエンヌ陸軍幼年学校に転校して、そこで本格的に軍事について学びはじめます。
この学校は貴族の子供だけしか入学できないのですが、彼の父親がコルシカ独立戦争でフランス軍に大きな貢献をしたため、ナポレオンはこの学校に入学することができました。この学校で彼が専門に学んだのは砲兵科でした。当時軍の学校に入学した貴族の子弟に人気があったのは騎兵科だったのですが、彼があえて砲兵科を選んだというところにナポレオンの先見の明を見出すことができます。
実際にこの砲兵科で学んだことは、ナポレオンのその後の人生で大きな働きをすることになります。ナポレオンはこの学校をわずか11ヶ月で卒業して、これは当時この学校のスピード記録でした。
フランス革命とナポレオン一家~財政難と三部会の招集~
陸軍学校を卒業したナポレオンは1785年に砲兵士官としてフランスの軍人となります。これは彼の人生に大きな影響を及ぼしたフランス革命が始まるわずか4年前のことです。
ブルボン王朝のルイ16世が支配していた当時のフランスは深刻な財政難にみまわれていて、ルイ16世はテュルゴーやネッケルを財務長官に任命して経済の建て直しをはかろうとしたのですが、なかなか思うようにはいきませんでした。
この時ネッケルが提案したのが三部会の招集でした。これは当時のフランスで第一身分とされた聖職者、第二身分とされた貴族、第三身分とされたその他の人々からそれぞれ代表を選んで、一緒に議事を運営するという画期的な議会です。
ですが開催された議会では当時の制度でさまざまな特権を得ていた聖職者や貴族と、第三身分の代表者が改革の進め方に対して激しく対立することになります。
特に大きな問題となったのが議決方式の問題です。第三身分の代表者は全ての身分による合同の議決を求めましたが、貴族や聖職者は身分ごとの議決を主張しました。
これらのことが背景になって第三身分の代表者は独立して自分たちだけの国民議会を創設します。このとき第三身分の代表者がヴェルサイユ宮殿のテニスコートに集まって互いに誓約をしたのが有名な球戯場の誓いです。貴族や聖職者の中にもこの国民議会の考え方に同意する人が現れたため、ルイ16世は後にこれを正式の議会として承認を与えます。
ですが、その一方で貴族や聖職者の国民議会に対する反発も強まり、軍隊を召集してこれに圧力をかけようとします。
こうした中、民衆に人気があったネッケルが罷免されたことから、これを契機としてフランスの民衆は、当時多くの政治犯が収容されていたバスティーユの牢獄を襲撃しました。これが1789年のことでした。
その後フランス革命は進行していくのですが、フランス軍の士官であった当時のナポレオンはこの動きに大きな関心を持っていませんでした。革命が進行している最中も故郷であるコルシカ島によく帰郷していたのですが、革命が進行にするにしたがって、ナポレオン一家にも大きな影響を及ぼすことになります。
コルシカ軍を裏切ってフランスの貴族となったナポレオンの一家に対する反感は地元に強く残っていて、フランスの王党派とみなされていたボナパルト家はコルシカ島から追放されてしまいました。島を追い出されたボナパルト家はマルセイユに移住してそこで新しい生活を始めます。
この当時ナポレオンは自分の政治に関する考え方をまとめた書籍を発表したのですが、こうした書籍を通して革命政府の中心人物であるロベスピエールのオーギュスタンなどとも親しい関係になります。このようにしてナポレオンも次第にフランス革命と深くかかわりあっていくことになります。
ナポレオンの出世とフランス軍~トゥーロンの戦いとヴァンデミエールのクーデター~
ナポレオンの人生にとって大きな転機となるのがトゥーロンの戦いです。当時革命政府が主導権を握っていたフランスでは、各地で暴動を起こしていた王党派の鎮圧をするために軍隊を派遣していました。ナポレオンはトゥーロンで暴動を起こしていた王党派を鎮圧するために派遣された将軍の下で砲兵軍の司令官として活躍します。この時の功によってナポレオンは少佐の地位に昇格します。
当時のトゥーロンは反革命派の大きな拠点となっていて、硬い防壁に守られていたのですが、この町を陥落させるためにナポレオンは付近の高地を征服して、そこから市街を砲撃する策を提案します。
この案が採用されたことによってフランス革命政府はトゥーロンを陥落させることができたのですが、これによってフランス革命はまた一歩大きく前進します。この時の進言が大きく評価されてナポレオンは旅団陸将の地位を与えられるのですが、これは彼がまだ24歳のときでした。
順調に成功への道を歩いているようにみえたナポレオンでしたが、その当時革命政府内で発生したのがロベスピエールのクーデターでした。事件は失敗に終りロベスピエールも処刑されたのですが、彼の弟と親しかったナポレオンも彼の仲間とみなされ一時的に刑務所に収監されてしまいます。
出獄後も予備役という扱いになり軍の主流から外れてしまったナポレオンでしたが、そんな彼の運命を大きく変えたのがヴァンデミエールのクーデターです。王党派による反乱であるこのクーデターを鎮圧するために副官に任命されたナポレオンは画期的な戦術によって、この反乱の鎮圧に成功します。この時の功によってナポレオンは師団陸将さらに軍副司令官から軍司令官という地位を得て、彼の存在はフランス軍の中で非常に大きなものになります。
ナポレオンによる統領政府と帝政~第一統領時代のヨーロッパ各地での戦い~
その後ポール・バラスに指導された総裁政府は、革命の影響を嫌う隣国のイタリアやドイツと激しく対立していたのですが、バラスはイタリアとの戦争の司令官にナポレオンを抜擢します。彼に率いられたフランス軍はイタリア軍を相手に勝利を重ね、ウィーンまで進軍した彼は、そこで総裁政府には無断でオーストリアと講和交渉をします。
この交渉によってフランスとオーストリアの間に条約が締結されて、フランスはナポレオンの活躍によってイタリア国内に多くの領土を獲得しました。こうした活躍によってフランス本国に帰還したナポレオンは国民から圧倒的な支持を受けます。
オーストリアとは講和したものの、フランスを敵対視する周囲の国の反感は依然として根強く、その中でも特に強くフランスと争っていたのがイギリスでした。そのためにナポレオンは当時イギリスの植民地であったエジプト遠征の司令官に任命され、エジプトでも多くの勝利を重ねます。
ですが彼が不在のフランス本国ではフランス海軍がイギリスとの海戦に敗北し、イタリアの領土も奪われるなどフランスは国家の存亡にかかわる重大な危機に陥ります。こうした動きを見たナポレオンは総裁政府には無断でフランス本国に帰還して、そこでクーデターを起こし総裁政府を制圧し、自身が指導者となって新たに統領政府を樹立しました。 これがナポレオンによる第一帝政時代の始まりです。
統領政府で第一統領となったナポレオンは、フランス軍を率いて天敵であるオーストリア軍に再び勝利しオーストリアとの間に有利な和約を締結します。その後ナポレオンは財政や立法にも力を入れ、国内にフランス銀行を設立し、1804年にはナポレオン法典とよばれる民法を公布します。
敵対関係にあったローマ教会との関係改善にも努力して、彼は同時に終身統領としての身分を得ます。1804年には議会と国民による投票によって彼はフランス皇帝に選ばれ、彼の人生はこの時最盛期を迎えます。その1年後、イギリス軍との間で行われたトラファルガーの会戦に敗れ一時危機に陥ったナポレオンでしたが、プロイセン軍・ロシア軍と戦ったアウステルリッツの三帝会戦に勝利したことによって、彼の地位は再びゆるぎないものになります。
この戦いに勝利したことを記念して建設されたのが、今でもパリの観光名所となっている凱旋門です。
ナポレオンによるヨーロッパ侵攻はその後も進み、兄をナポリ王、弟をオランダ国王にして、一族による支配体制を強化していきます。ヨーロッパ全土を支配していく一方でイギリスとの戦いは依然として継続し、イギリスを孤立させるためにナポレオンが発令したのが大陸封鎖令でした。ですがこの封鎖令にロシアが協力せすイギリスと貿易を行ったため、ナポレオンは60万の大軍を率いてロシアに侵攻することを決意します。けれどもこの作戦は大きな失敗に終わります。ロシアの厳しい寒さとロシア軍指令官の巧妙な戦術によって、ナポレオン率いるフランス軍はロシアに決定的な敗北を与えられ、この戦いで多くのフランス兵がその命を失いました。
この大敗を契機としてヨーロッパ各地でナポレオンに対する反乱が勃発し、各地で連敗を重ねたフランスは1814年ついに、首都のパリを連合軍によって陥落させられてしまいます。捕らえられたナポレオンはエルバ島に追放されるのですが、翌年彼はひそかに島から脱走して再び皇帝の地位に復位しました。けれど復位から100日も経たずに行われたワーテルローの戦いに再び決定的な敗戦をしたために、ナポレオンは再度捕らえられ、今度は大西洋の孤島であるセントヘレナ島に流されてしまいます。その島でナポレオンはその短く激しい生涯を終えることになりました。亡くなったのは1821年で、死因は病死でした。
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如何でしたでしょうか?ナポレオン1世の生涯についてお伝えしました。ナポレオン金貨はナポレオン1世、ナポレオン3世の金貨に加えて、20フランのフランス金貨や5・10・40・50・100フラン金貨を総じてさす場合もございます。
ナポレオン1世の硬貨は、パリ鋳造だけでなく、イタリア領[ジェノバ、トリノ鋳造(1803年-1813年)]、ローマ鋳造(1812年-1813年)、オランダ[ユトレヒト鋳造(1812年-1813年)]、そしてスイス領ジュネーブ鋳造など、今のヨーロッパ各地で作られていました。これらはフランスの管理下でフランス帝国の貨幣として鋳造されました。
表面には肖像と「NAPOLEON EMPEREUR(皇帝ナポレオン)」、裏面には「REPUBLIQUE FRANCAISE(フランス共和国)」と鋳造年のAn13、An14や1806、額面、ミントマークなどが刻まれています。
この肖像には月桂樹の冠があるものや肖像がやや大きくなったものなどがあります。
共和暦は14年で廃止され大量に鋳造され現存枚数も多い金貨のため、基本的には地金相当のお買取りになります。その中でも発行枚数の少ない年数のミントマークや、ナポレオン1世の初期の状態が綺麗なコイン、PCGS、NGCの鑑定機関がグレーティングしたコインなどは高額で取引されます。以降は1806年からの鋳造となります。
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